グイノ・ジェラール神父の説教
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年間第13主日 C年 2019年6月30日 グイノ・ジェラール神父
1列王記 19,16、19-21 ガラテヤ 5,1、13-18 ルカ 9,51-62
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とルカは教えています。イエスは、エルサレムで大祭司や律法学者たち、あるいはローマ人の兵士たちとのいわれのない侮辱や暴力に遭う覚悟をしています。ヤコブとヨハネ、そしてイエスに従う人々に言われた言葉が、イエスの決意を明らかに示しています。イエスの言葉は真の幸せに人々を導くのです。人がこの幸せを手に入れるために、イエスは優しい言葉と厳しい忠告を同時に語ります。このようにして、イエスは人の頑なな心の扉を開こうとします。
耳の聞こえない心の頑なな者である私たちは、新しいことに対してスタートすることも、決断することも遅いのです。また人から依頼されたことを実現するのを先延ばしにする傾きをもっています。そいう訳で、イエスは厳しく、強く忠告します。「今は、救いの時です。急いで福音を信じて回心してください」と。人々の心が鈍くなっている理由は、私たちが生きている世界が厳しく、憐れみの少ない世界だからです。キリストの厳しい言葉は、この世界の厳しさに対応しています。
ところが、イエスの厳しい言葉は人を圧迫するよりも、その人を自由にします。聖パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中でそれをはっきりと宣べています。「兄弟たち、自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と。イエスはあらゆる面で自由の人でした。自分がある所、ある状態、ある友情的な雰囲気によって捕らわれないために、イエスはいつも歩き続けます。昔からの風習が、私たちの自由を奪うことをイエスは望みません。ですから、イエスの厳しい言葉が私たちの前に、救いの道、自由な道を開くことをよく理解しましょう。このイエスの厳しい言葉は、私たちを愛するために死ぬことを決意したイエスの心から湧き出し溢れています。
イエスは近い内に恐ろしい苦しみを通して、殺されることを隠そうとはしません。終りまで自分に委ねられた使命を果たす決意を固められました。弟子たちをご自分の受難と復活の証人とするために準備として、イエスは彼らに役に立つ、賢明さの勧めを与えています。イエスはヤコブとヨハネに暴力に訴えることや復讐や軽蔑を避けることを教えます。ある人には、福音宣教が要求する貧しさを思い出させます。また他の人には、自由な人にするために後ろを見ないことの必要性を教えています。
イエスの厳しい言葉は、また日常生活の中で試練が溢れていることを思い起こさせ、私たちは勇気と賢明さをもって、それらにぶつかることが大切だと教えています。キリスト者としての使命をよく果たすために、私たちもイエスのように「柔和で謙遜な者」(参照:マタイ11,29)であることと「互いに重荷を担うこと」(参照:ガラテヤ6,2)がとても大切です。キリスト者はキリストのように、全ての繋がりや絆に対して自由な人でなければなりません。これらの絆と繋がりは家族的、物質的、霊的であろうと、キリスト者は慈しみと愛の溢れる心をもって、キリストのように考え、話し、行なう人です。そして自分の人生の目的を見失わないように、キリストに生きる決意を固める人でなければなりません。アーメン。
年間第14主日 C年 2019年7月7日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 66,10-14 ガラテヤ 6,14-18 ルカ 10,1-12、17-20
どのようにして私たちは昔の勧めに従えば良いのでしょうか。キリストの時代には外国人や旅人や巡礼者を歓迎し、彼らをもてなすことは当然の義務でした。現代では、自分の身の安全を守るために、見知らぬ人は危険な人物だとされて、もてなしは珍しい行為になってしまいました。また、現代人は荷物を持たず、お金の用意もしないで何日間も旅に出る人はいません。しかし、イエスは神への信頼以外に何も持たずに福音宣教のために出かけることを勧めています。イエスに遣わされた人々は、唯一の荷物として、平和や癒しの恵みと救いの言葉しかもっていません。
遣わされた72人の弟子たちは、神の平和をもたらす人です。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と。この平和を受け止める人は宣言される救いの言葉に注意深くなります。この平和は、体と心に回復を与えます。さらに神の平和は、人々に救いの門を大きく開きます。私たちは、毎日曜日ミサの中でこの平和の挨拶を交わします。ただし、この平和は決して単なる優しい挨拶や仲直りの行ないではありません。そいう訳で、教会は平和の挨拶を交わすとき、沈黙と少しの動きを要求します。なぜなら、この平和は私たちがキリストの御体を受けるためのとても大切な準備ですから。キリストが私たちに与えた平和は、神と親密に私たちを一致させ、聖霊の交わりの内で神ご自身の命に与らせるためです。それは私たちがキリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊となるためです。預言者イザヤが教えているように、神の平和は慈しみと愛の「大河のよう」です。
神の平和に満たされているので 遣わされた72人の弟子たちは喜んで帰って来て、イエスのそばに集まります。というのは、実際に行った宣教活動が彼らの心を豊かに満たし、神と親密に一致させたからです。そこでイエスは、彼らの喜びの由来がどこにあるか説明します。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。神の名によって、彼らが実現したことや神が彼らを通して行なったことのお陰で、72人の弟子たちは人々の前で証ししていた「神の国」に完全に入るようになりました。このような訳で、お互いにキリストの平和を交わす時、天の国は地に降り、父なる神の家に一緒に入るように私たちも誘い合います。
主イエスが、私たちにご自分の平和を残されたので喜びましょう。この平和のお陰で、悪は力を失い、病気の人々は癒され、罪人は赦され、神の国は大きく広がります。神の名によって私たちが実現することは、必ず全人類にとって救いの泉となることを、もう一度よく考えて理解しましょう。聖パウロはコリントの信徒とコロサイの信徒への手紙の中で、そのことを書きました。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(参照:1コリント10,31)、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(参照:コロサイ3,17) と。
イエスと聖パウロの勧めに従いながら、神の永遠の喜びに入りましょう。そして自分と共に全人類を連れて行きましょう。なぜなら「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(参照:テモテ2,4)からです。アーメン。
年間第15主日 C年 2019年7月14日 グイノ・ジェラール神父
申命記 30,10-14 コロサイ 1,15-20 ルカ 10,25-37
「あなたは、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守りなさい」とモーセは願っています。なぜなら、神の掟は誰にでも受け止めることができる「愛のことば」ですから。イエスは神の生きているみ言葉なので「神は、御心のままに、すべてを余すところなく御子の内に集めようとする」ことを聖パウロは説明しています。したがって、永遠の命を得るために、つまり愛の完成に導かれるために、イエスは「隣人を自分のように愛すること」に私たちを誘っています。神の言葉を聞くことは、自分のように隣人を愛すること、そして永遠の命である「愛の完成」に辿りつくことを可能にします。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛すこと」は、隣人を愛することを学ぶことです。神に近寄りたいと望む人は、自分の周りの人々や自分の近くで暮らす人々に近寄るように招かれています。聖ヨハネが教えている通り「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(参照:1ヨハネ4,20-21)と。神への愛は隣人への愛と切り離せないものですから、聖ヨハネはそれをよく思い起こさせました。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(参照:1ヨハネ3,17)と。
「では、わたしの隣人とはだれですか」と律法学者はイエスに尋ねました。このような質問をすることは、結局はこの律法学者が自分に近い者あるいは遠い者というふうに、人々を分けてしまっているからです。誰を愛すべきですか 親しい人々や、近所の人々や、全く知らない人々ですか。自分の友情を誰と分かち合うべきでしょうか、誰を自分と関わりのないものだとするべきでしょうか。自分の愛を受けることに相応しい人々はどんな人でしょうか。イエスはこのような利己中心的な考え方をすぐに破壊しました。私たち一人ひとりが、遠く離れている人や不幸のどん底で見捨てられている人々の隣人にならなければなりません。他の人の苦しみや惨めさに自分の心を開くことこそ、私たちを「隣人」にすることだとイエスは教えました。
しかし、それを実践するのは至難の業です。もし相手が敵であったり、危険な人物だと判れば、私たちはその人を避けようとします。もし相手に対して偏見や恨みを持つなら、私たちは不信感をもってその人を見るでしょう。むしろ相手に対して思い遣りの心をもてば、その人に遠慮することなく出会い、話し合うことも簡単になります。恐れ、不信、偏見などは愛することを妨げるのです。敵への愛と同様に、隣人への愛も私たちが自分の感情を乗り越えることを要求します。さもないと私たちが示す愛は、偽善と偽りの愛となります。
栄光の内に来られる日まで、イエスは私たちに他の人の世話を任せました。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(参照:ローマ5,5)。イエスを試そうとした律法学者に「たとえ話のサマリア人に倣って行い、あなたも同じようにしなさい」とイエスは勧めました。イエスは私たちにも同じことを勧めています。お互い同士に示すべき慈しみと憐れみをイエスは、はっきり教えています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ25,40)と。
ですから、神が私たちに対して憐れみ深くおられるように、私たちも憐れみ深い人、慈しみ深い人となるためにあらゆる可能性を探し求めましょう。それを実現しないなら、私たちは決して赦されないでしょう。なぜなら「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(参照:ローマ5,5)。アーメン。
年間第16主日 C年 2019年7月21日 グイノ・ジェラール神父
創世記 18,1-10 コロサイ 1,24-28 ルカ 10,38-42
今日の朗読は、神と出会った人間の喜びを見せようとします。不思議な三人の旅人を急いで迎えるアブラハムのもてなしは、旅人にたいして親切さを惜しまない雰囲気を作ります。キリストを大歓迎するマルタの熱い思いは彼女の喜びの一つのしるしです。様々な試練にも拘らず各教会の面倒をみることにより、キリストご自身の面倒を見る喜びと同じだと自負を聖パウロは宣言し、またそれを語ります。沈黙を守り、主の足元に座っているマリアは、キリストの言葉が与える内面的な喜びを深く味わっています。
イスラエルの民にとって、旅人や客人を歓迎するのは伝統的な義務です。創世記の話では、アブラハムと妻サラが三人の旅人を歓迎したもてなしの質の高さと木目細かさがよく表されています。このもてなしのお陰で、彼らには待ち望んでいた息子が誕生し、子孫は喜ばしい約束を受けました。
マルタもマリアも二人共イエスを愛しています。マルタは遠慮しないでイエスと親しく語らいますが、マリアは何も言わずに平気でイエスの足元に座ります。この三人の間には、既に友情の関係があります。出来るだけイエスに良いもてなしをするために、また、イエスを喜ばせるためにマルタは熱心に働いています。イエスはマルタの行為を否定はしませんが、もてなしの事で心がいっぱいになり、イエスの言葉を聞く余裕がありませんでした。そこでイエスは彼女にただ一つのことだけを勧めます。それは立派なご馳走よりも、人を満たし平和と喜びを与えるご自分の言葉に耳を傾けることです。マルタは準備に落ち度が無いかと色々と心配しているので、イエスは彼女が平和を取り戻すために少し座って、落ち着くように勧めます。
マルタにとっては、イエスを養うことやイエスに何かを与えること、イエスのために色々することが、何よりも先ず大切なことです。しかし、マリアにとっては、神のみ言葉であるイエスの教えを受けることこそが第一です。なぜなら、イエスは人を養い、強め、人に喜びをもたらすお方ですから。マルタはイエスにたくさんの物を与えようとしますが、マリアはイエスからたくさん貰いたいのです。ですから、マリアはマルタよりもイエスに正しいもてなしを与えました。というのは、命と平和と喜びを運んでいるイエスの救いの言葉をマリアは受けとめたからです。
人を歓迎すること、人をもてなすことは、人に何か物を与えることよりも、自分の心をその人に開き、その人の話しに注意深く耳を傾けることになります。忙しく立ち働くことは、遅かれ早かれ、人にあげたもてなしも台無しにしてしまいます。
ご自分の友情を提案するために、イエスは私たちを訪れます。イエスを歓迎し、良くもてなすために私たちは先ず彼の言葉に耳を傾けることが大切です。イエスの名によって、あるいはイエスのために何かを実現することはとても良いことです。毎日曜日にミサ祭儀に忠実に参加することもとても大切です。しかし、時間をかけて、座ったまま、聖書の一ページを黙想することによって、イエスに自分の心の愛を示すのも大切なことです。
ですから、私たちを悩ませることや心配させること、苛々(いらいら)させることを忘れて、自分の内に落ち着いた雰囲気を作りましょう。それは聖霊の助けによって、私たちが日常生活の中でイエスに正しいもてなしを与え、そしてまた互いを互いに歓迎し合うことが出来るためです。アーメン。
年間第17主日 C年 2019年7月28日 グイノ・ジェラール神父
創世記18,20-32 コロサイ 2,12-14 ルカ 11,1-13
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。 このみ言葉に私たちは確信をもっています。即ち神は私たちに先立ち、私たちを助けるため、また私たちやその回りの人々に救いの計画を実現するために、私たちが切に願う懇願と哀願を待ち望んでいます。数人の正しい人のためにソドムの町が破壊されないようにアブラハムは精一杯神に懇願しました。しかし、10人の正しい人がいなかったので、結局ソドムは破壊されました。そんな中で、アブラハムの懇願により甥であるロトとその家族は救われました。
「その十人のために私は滅ぼさない」と神はアブラハムに約束しました。数世紀の後、預言者エレミヤを通して神は新しい約束を与えました。「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」(参照:エレミヤ5,1)と。神はひとりの正しい人のためにエルサレムを滅ぼすことを諦めると約束しました。預言者エレミヤはその正しい人でした。しかし町の人々が強制的に彼をエジプトに連れていってしまったのでエルサレムに正しい人が居なくなり、神はイスラエルを敵の手によって完全に滅ぼされました。
その後、預言者イザヤは神の約束を繰り返します。「苦しむわたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(参照:イザヤ53,11)と。イエスはこの苦しむ僕でした。罪のない、唯一の正しい人としてキリストだけが全人類を滅びから救うことができました。正しい人イエスは「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」(参照:ヘブライ5,7)神に懇願し私たちの救いを願いました。神はイエスの祈りを叶えられました。ですから、イエスは「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました」(参照:ヘブライ5,9)。そういう訳で、正しく祈ることをイエスは私たちに教えています。他の誰よりも、懇願と哀願の祈りが力をもって神の心を動かすことをイエスはよくご存知ですから。祈り方を願っている弟子たちに、執拗な友だちのたとえを通してイエスは懇願の祈りを教えています。
この祈りは数多くの言葉が必要ではありません。むしろ諦めずに、昼も夜も神に同意を願い、救いと助けを得るために示す神への信頼が必要です。懇願の祈りは決して神に圧力をかける方法ではありません。むしろ、自分が無力で弱い者であることを示し、私たちの揺るぎない信仰の叫びと希望の現われです。懇願の祈りが叶えられても、叶えられなくても、イエス自身が父なる神のみ前で執り成してくださっていることを私たちは信じています。更に懇願の祈りは「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(参照:ローマ8,26)聖霊ご自身の祈りであり、またこの祈りは私たちをますますイエスに似る者とするために変容させることを私たちは知っています。そしてまた、それを信じています。じつのところ、私たちはどれ程、聖霊の力と慰めで満たされているかを深く感じ体験しています。
ですから、私たちは自分のためだけではなく、私たちと同じように苦しみ、試練と出会い、罪と誘惑の解放を望んでいる人々のためにも懇願する必要があります。言い換えれば、イエスと共に神の前で、全人類のために懇願する事はとても大切です。「主の祈り」が教えているように、神の慈しみに全世界を捧げることは私たちの絶え間ない努めです。私たちは神が「願い事は何でも聞き入れてくださる」(1ヨハネ5,15) ことを知っているので、リゴリの聖アルフォンソの勧めに従って、「神に2つ、あるいは3つの恵みを願うよりも、10の恵みを願うほうかよい」から遠慮なくたくさんの必要な恵みをこい求めましょう。神はけちな方ではありません、しかも願った恵みを整理することも選別することもお出来になるのです。
諦めずに祈りましょう。神は私たちの父です。イエスが人間になったことで、神は永遠に私たちに結ばれています。そして誰よりも私たちの幸福を望んでいます。ご自分の霊を与え、永遠の愛で満たされているご自分の命を与えることで、神は私たちの幸せを築いています。以上のことから、なぜ私たちの祈りが懇願と感謝で満たされるものでなければならないかという事を理解出来るでしょう。アーメン。
年間第18主日 C年 20129年8月4日 グイノ・ジェラール神父
コヘレト1,2、2,2-23 コロサイ3,1-11 ルカ12,13-21
「わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されている」と聖パウロは教えています。この事実を忘れる人はコヘレトの覚め切った言葉を繰り返すことしかできません。「なんという空しさ、すべては空しい…毎日は苦しみと悩みを運び、仕事は苦労の泉であり、夜も安らぎを得ません」と。「むなしさ」と訳されたヘブライ語の言葉は「靄」とか「湯気」と意味しています。太陽の暑さは靄と湯気を簡単に消します。いくら人の人生が輝いていても、いつかすべてが消えるとコヘレトは絶望的に喚いています。
自分の人生の中に神の存在を見つけない人は、遅かれ早かれ、虚しさを体験し味わうでしょう。人の命は儚く、短いものです。自分の気まぐれに従って、わがままに生き、自分自身に勝てない人は必ず消えていきます。ですから、自分の命が神の内に隠されていると理解した人は、自分の弱さの中に神が介入し、神の愛と慈しみの力をますます体験します。
家族の遺産の問題を解決するために、イエスが来たのではないことを今日の福音が教えています。イエスが来たのは、私たちの人生に価値と意味を与えるものを教えるためでした。「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と聖パウロは要求します。なぜなら、人間の生命の価値は、その人が持っている物質的な物や上手く行なった物事によって量られると私たちは思いがちですから。しかし、イエスはそのようには考えていません。そのように考える人々は「自分の命を失う愚かな者だ」と断言しました。たとえ話の結論を語った時に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とイエスははっきりと言いました。ですから、生涯を賭けて集めた富と共に自分の命を失うこのたとえ話の愚かな者に加えられ、数えられないように私たちは知恵を尽くして生きるように努めましょう。
イエスと聖パウロが勧めている通り「古い人をその行いと共に脱ぎ捨てる」ことは容易ではありません。私たち自身の神秘である神の神秘を自然に迎えることが出来るようには、どうすればよいのでしょうか。私たちは新しい人となったのに、どうして神が私たちの内に置かれたご自分の愛の豊かさを発見することが出来ないのでしょうか。実はこの発見こそが「神の前に豊かになる」ことです。というのは「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(参照:ローマ5,5)。この愛は正義、真理、分ち合い、赦しと慈しみの豊かな実を私たちの内に実らせるはずです。
勿論、物質的に富んでいる人が、持っている自分の豊かな物質を上手に大勢の人のために分ち合えば 全人類の生き方は大きく変わるでしょう。イエスは富やお金や人の豊かさを決して咎めていません。キリストが厳しく咎めるのは「人が育てる貪欲」です。 この貪欲は「人の命は財産によってどうすることもできないからです」。ですから、知恵のあるコヘレトのように、私たちも人生と物事の弱さと空しさについて度々思い巡らしましょう。長く永遠に続くものを選び、未来(将来)の無いものや、すぐ消え失せるものを遠ざけましょう。
ご存じのように、現代は大勢の人が自分のスマホの虜になって、全世界に向けて神が宣言する知恵の言葉に耳を傾けることが出来なくなっています。他の人々は仕事に捕らわれ、共に暮らしている家の人たちも忘れ、会社の発展のために過労死を呼び起し自分の命に危険をさらしています。その愚かさは、家庭の幸せをもたらすのではなく、返って家庭の不幸の準備のために働いているのです。また他の人々は解決できない問題に縛られ、人との出会いを避け、自分に閉じこもってしまうので世界で起こる様々の問題について全く興味を持ちません。このような人々は「耳の聞こえない者」となってしまっています。
「主なる神はわたしたちの耳を開かれた」(参照:イザヤ50,5)と預言者イザヤは告白します。私たちは信仰の恵みと共に耳を開く聖霊の知恵の恵みを受けましたので 賢く神の言葉に耳を傾けましょう。私たちの人生が無意味なものとなるのではなく、むしろ価値のあるものとなるように、日毎に神と親密な愛の関係を結びましょう。そして「過ぎ行くものを正しく用い、永遠のものに心を向けることができますように」(参照:年間第17主日の集会の祈り)。アーメン。
年間第19主日 C年 2019年8月11日 グイノ・ジェラール神父
智恵の書18,6-9 ヘブライ11,1-2、8-19 ルカ12,32-48
定住する場所を持たずに、アブラハムは一生さ迷う生活を送りました。七十歳の時に受けた神の約束を信じて、アブラハムは神が示す地に出発しましたが、約束された地を受けることができませんでした。ただ神が導かれた国を歩いただけでした。しかし示した揺るぎない信仰を通して非常に年おいたアブラハムは自分の子孫を見ることができて大変喜びました。
智恵の書はエジプトでのイスラエル人の解放を語りながら、奴隷の状態から救われる前に彼らは既に大いに喜んでいたことを証ししています。「彼らはより頼む契約を固く信じ、喜び、また安心しました」(参照:バルバロ訳)と。なぜなら神のみ言葉に対して示される信仰はいつも大きな喜びの泉となるからです。
信仰は希望と愛と喜びの内に人が歩む道のりであることを聖書全体が教えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。この考えは私たちが普通行っている問題への取り組み方に反するのです。現代の人々は未来を恐れているので、未来に起こるはずの危険を防ぐために、できるだけ多くの安全を捜し求め、現在の時点から後退しがちです。彼らは未来に希望を持つ人は、無謀なリスクを取る人だと思っています。
私たちは信じている神が待っておられる所へ進み続けるために、信仰が与える希望と喜びを自分たちの支えとしています。信仰は、聞いた神の言葉への具体的な答えであり、喜びと希望に深く根を下ろす誘いでもあります。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とイエスは願います。希望は、給仕するための「腰に締める帯」で、喜びは「灯しているともし火」です。約束されたように、主はいつか戻って来ます。しかし、私たちはその出来事の時も日時も全く知りません。希望の帯を腰に締めている人は幸いです。心の中に主を待ち望む喜びを保っている人も幸いです。
目覚めた状態で現在の瞬間に生きながら、「未来の人」となるように、主イエスは私たちを誘います。希望をもって生きることは、決して何もせずに怠惰に生きることではありません。信仰とは、人を一歩前進させ、喜びと信頼で満たす力です。信仰は確実で快適な土台に人を置くことはできません。信仰は見知らぬ道を開くだけです。アブラハムは出発した時、自分の行き先を全く知りませんでした。しかし、私たちは神がどこへ私たちを導くのかを知り、イエスは私たちのすぐ傍を一緒に歩いておられ、聖霊は私たちを守り導きます。私たちの人生は幻想や欲望、喜びや苦悩、計画や立ち上げたプロジェクトの失敗の連続ではありません。私たちの人生は、神が私たちと共に歩みながら書き続ける「聖なる物語」です。
そういう訳で、信じている私たちは希望と喜びで満たされています。私たちの希望は決して絶望で終わらないことを見出し、また宣言します。信仰から生まれる美徳は、人生のどんな試練を受けても、既にキリストの勝利に与からせる確かな、貴重な恵みです。信仰は「望んでいる事柄を豊かに与えるからです」(参照:ヘブライ11,1)。
約束されたように、今日のミサ祭儀を通してイエスは「腰に帯を締めて、私たちを食卓の席に着かせ、傍に来て給仕する」でしょう。ですから、揺るぎない信仰と希望をもって、喜びの叫びの内に神に感謝しましょう。アーメン。
年間第20主日 C年 2019年8月18日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ 38,4-6,8-10 ヘブライ 12,1-4 ルカ 12,49-53
イエスは「平和の君」と呼ばれています。イエスが与える平和はこの世のものではありません。イエスの平和は火と分裂をもたらすものです。私たちが持っている様々な偽物の平和から解放するために、イエスはそれらを阻止して本当の平和をもたらすのです。この偽物の平和の名は、無関心、妥協、他者への思いやりの欠如、無責任です。イエスの平和は、各個人が神の道を選ぶようにと強く誘います。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(参照:マタイ12,30)とイエスは言いました。
神は「私たちの歩みを平和の道に導くために」(参照:ルカ1,79)イエスをメシアとして遣わされたので、クリスマスの夜に天使たちは「地には平和、御心に適う人にあれ」(参照:ルカ2,14)と歌いました。実は、「平和」と「一致」は、イエスの使命の本質を示す言葉です。イエスは人々を互いにいがみ合わない平和の上に全人類の一致を望みます。そうであれば、どうしてイエスは分裂の火や一致の欠如、絶え間ないいがみ合いや不安を承諾するのでしょうか。
神の平和を宣言し約束した預言者エレミヤとイエス、あるいは初代教会の殉教者たちは皆苦しい状態と屈辱的な苦難を受けました。しかし、皆に見捨てられても、彼らは「諦めずに血を流すまで抵抗しました」(参照:ヘブライ12,4)。ご存知のようにイエスの親戚が彼を気の狂った人だ(参照:マルコ3,21)と思い、彼の言動を理解できませんでした。ナザレの人々もイエスのことを理解せずに彼を殺そうと企んでいました。そのうえ、エルサレムの神殿の律法学者や大祭司たちはイエスを見捨て、殺されるように異邦人の手に引き渡しました。「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(参照:ヨハネ1,11)とヨハネは福音に書き記しました。
地上に火を投げることについて話したイエスは、きっと照らす火、暖める火、清める火、焼き尽くす火のことを考えたに違いありません。「世に来てすべての人を照らす光である」(参照:ヨハネ1,9)イエスは人々の冷たい心を温め、ご自分を信じる人を清め、聖とするためにこの世に来られました。同じように「地上に火を投ずるために来た」イエスは、全人類を清め、聖とするために来たのです。特別な洗礼、つまり十字架の上で死ぬことによって、イエスはそれを実現しました。しかし、悲しいことにイエスの受難と復活は全人類に平和と一致を与えるよりも、人類の間に取り返しのつかない裂け目を作り出してしまいました。また、復活の出来事はキリストを信じその教えに従う人々と、イエスを否定しモーセの律法に従う人々の間に暴力的な分裂を生み出すことになりました。
しかしながら、キリストの死と復活は信じる人々に神の愛の火、つまり全てを新たにする聖霊の燃える火を豊かに与えました。残念なことに、この世では神の平和を拒む人たちがいます。今でも世界中でキリスト者に対する迫害や教会の建物に対するテロ行為が続いています。全人類の一致と平和のために献げられたご自分の命が、分裂、暴力、終りの無いいがみ合いや戦争を生んでいることをイエスは知っています。
皮肉なことに、十字架上で引き裂かれたイエスの体は、彼がもたらした分裂のしるしとなりました。この姿こそが、年よりのシメオンが母親のマリアに打ち明けた預言を具体的に表しているのです。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(参照:ルカ2,34)と。信仰の道、即ちイエスに従うことによって、私たちも軽蔑や無理解、無関心などにたびたび出会いますが、神の御心にかなう人々に与えられている平和と一致を豊かに受けることを固く信じて宣言しましょう。アーメン。
年間第21主日 C年 2019年8月25日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 66,18-21 ヘブライ 12,5-7、11-13 ルカ 13,22-30
イエスはご自身の昇天によって、天の門を大きく開きました。少しも待たずに、すぐにそこへ入るように私たち一人ひとりが招かれています。「神の国が近い、神の国がわたしたちのうちにある」(参照:ルカ17,20-21)という事実をイエスは繰り返しています。徴税人のザアカイの家に入った時に「救いがこの家を訪れた」(参照:ルカ19,9)と、イエスは宣言しました。また、ご自分のそばで十字架につけられた一人の犯罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(参照:ルカ23,43)とイエスは約束しました。永遠の救いが今から私たちに提案されています。
救いは決して成功していて、疑いのないのものではありません。神の国に入るために戦うことが必要です。「入るように努めなさい」と翻訳されていますが、元のギリシャ語の言葉は「AGONIZESTHE」であり、「死で終わる戦い」、「死に瀕することであり「自分自身に死ぬこと」をはっきり意味しています。そういう訳で「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(参照:マタイ11,12)とイエスは宣言しました。「天の門は狭い」ですので、どうしても、何としても、是非とも、そこから入ることが必要です。イエスこそが、この狭い戸口であることを私たちは簡単に理解できます。「わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができません」(参照:ヨハネ14,6)とイエスも言いました。同時に狭い戸口とは、神と隣人への愛の掟の実践です。この愛の実現こそ、大勢の人が幸せに生きるように、私たちが自分の命と幸せを捨てることを教えています。
「私はキリスト者だ」と言うだけで、自分が救われると思っている人は大変間違っています。「私はキリスト者だ」とか「私は洗礼を受けました」の宣言だけでは、人は救われていません。救われるためにキリスト者は、より一層イエスと一致して、熱心に祈り、絶えず神の言葉に耳を傾け、度々教会の秘跡を受け、助け合いと分ち合いの行ないを実行しなければなりません。イエスの言葉はとても厳しいのです。「入ろうとしても入れない人が多いのだ…あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください…御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」と。他の人々も一緒に入ることを望まずに、神の国の門をたたいて入ろうとするキリスト者は不義を行っています。
不義を行なう人は自分を信じる人々の共同体から立ち離れ、閉じたドアの前に自分を置くことになると全ての預言者たちは教えています。愛の全ての業は「神の正義」と言われているのです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせなかった」(参照:マタイ25,42)。神の愛の賜物として、救いは全ての人に提案されています。思い違いをしないでください、救いはイスラエルの民とキリスト者だけに約束された特権ではありません。そうではなく自分の正義と愛の業によって神の国を近寄らせる人に救いが与えられています。神は全ての人の救いと幸福を強く望んでいます。自分自身を神の国から遠ざけた人々、「外に投げ出されて、泣きわめいて歯ぎしりする人々」さえも最後に救われるでしょう。なぜなら、イエスは彼らが永遠に失われる者だとは言いませんから。この憐れな人々が「最後になる」とイエスは言いました。最後の者として、いつか彼らは救われた人々に加えられるでしょう。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(参照:マタイ9,30)と。彼らが不幸の中で進むべき道を見失い迷って、遅くなったことは非常に残念なことでした。というのは、初めから神は天の国の幸福を提案しました。しかし、彼らは神と隣人への愛の掟を知っていたのに、それを実現することを拒みました。
「私たちの人生の終わりに、私たちは愛について判断されるでしょう」と十字架の聖ヨハネは言いました。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(参照:ローマ5,5)ので、私たちの救いのために、そして全世界の人々の救いのために、キリストに倣って、すべてにおいて愛と平和と正義の業を実践しましょう。アーメン。
年間第22主日 C年 2019年9月1日 グイノ・ジェラール神父
シラ書 3,17-18、20,28-29 ヘブライ 12,18-19、22-24 ルカ 14,1、7-14
賢い人は謙遜に神の言葉に耳を傾けると賢明なシラは教えています。砂漠の沈黙の中でヘブライ人は神を発見します。何もできないエジプトの偶像と違って、生きている神は話し、行い、救います。神の声は暴風、雷、燃える火、ラッパの音を通してとても強く語るので、その声を聞かないようにヘブライ人は自分の耳を塞ぎました。この反応は高慢な態度を現すので「今日神の声を聞くなら、心を閉じてはならない」(参照:詩篇95,8)と度々モーセは勧めます。数世紀が過ぎて、柔和で謙遜なイエスは、「叫ばずに、声を巷に響かせず」に(参照:イザヤ42,2)私たちの心に話すために来て(参照:ホセア2,16、)慈しみ深い父として語る神の声に耳を傾けるように教えました。
神の偉大さと自分自身の惨めさを承諾するために謙遜は非常に役に立ちます。イエスは謙遜の完璧な模範です。イエスは、たえず父なる神に耳を傾け、誰も支配せず、皆に仕える者となりました。イエスは弟子たちの足を洗った後、つまり謙遜の態度の模範を示してから、彼らに初めて自分を「先生」とか「主」と呼ぶことを許しました(参照:ヨハネ13,13)。また、「神のはしため」と自分を呼び、神の言葉を絶えず心に思い巡らす聖母マリアも私たちに与えられた謙遜の模範です。
心に神の言葉を思い巡らし黙想することによって、人は謙遜になります。確かに、神の言葉は注意深く耳を傾けて信じる人の「耳を掘る」つまり耳を大きく開く、と詩篇40番6節は教えています。預言者イザヤもこの謙遜の道を、耳を大きく開いたままで歩むように私たちを招いています。「主なる神は、朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった」(参照:イザヤ50,4-5)と。
今日、イエスは二つの大切な勧めを与えています。一つは食事に招かれた人に、もう一つはその人を招く人に。食事に招かれた人は謙遜な態度を示さなければなりません、同時に招く人は貧しい人や体の不自由な人の世話をしながら、彼らに謙遜に仕えなければなりません。謙遜の態度を示すことはとても難しいです。なぜなら謙遜は人がへりくだること、即ち自分が小さい者であることを要求するからです。実は自己愛、自分の虚栄と高慢に打ち勝つことは至難の業です。
私たちが示す謙遜は、多かれ少なかれ偽善を含んでいます。「高慢な者の苦しみは、癒すすべがない、彼の中には悪が深く根を下ろしている」「智恵ある者が欲するのは注意深い耳」(参照:シラ書3,28フランシスコ会訳)と賢いシラは私たちに思い起こさせました。
何も期待せずに、体の不自由な人や目の見えない人、軽蔑された人を招き、もてなすことこそ神がなさるように愛することです。何一つ感謝の言葉を期待せず、人に何でも与えること、また人の飢えと渇きを少しでも癒すことができたことを喜ぶことも神の慈しみに与ることです。反対により多くを得るために与えることや自分の益になること、自分の役に立つ人びとと関係を結ぶことなどは私利私欲の心を育てることです。
何も期待せずに、無償で人々と神をますます愛することは謙遜に生きることを教えています。ですから、キリストに倣って、私たちも「柔和で、謙遜な者」(参照:マタイ11,29)、神の言葉に対する飢えと渇きを持つ者、その言葉に注意深く耳を傾ける者になるよう努めましょう。アーメン。
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